音楽室

  校歌・応援歌を音楽室にまとめ「校歌応援歌を聴こう」を併設しました。

   ※原音源は、東京函商同窓会が母校創立90周年記念「校歌・応援歌レコード」として製作した

   ものから、平成23年10月に母校の新校舎(昭和2代目)落成を記念した「創立90周年記念レコード

   復刻版CD」よりアップしました。存分にお楽しみください。

   編曲 服部克久  歌 ボニージャックス  東京アカデミー混声合唱団

   なお、復刻版CDにはナレータとして旧制30回生益田喜頓氏が出演しています。

  

  復刻版CD歌詞集に記載された逸話

  学校歌

  五稜ケ丘の新校舎に移転して8年目の昭和4年、創立40周年記念事業のひとつとして吉岡熊雄校

       長は五稜ケ丘時代にふさわしい新校歌の制定を考慮し職員会議の席上で、「今後永く校歌として歌

       われるものゆえ一流人に依頼すること、旧校歌は同窓生に馴染みが深く廃止するのは惜しいとの話

  も出て第一校歌・第二校歌と呼び併用してもよい」との結論に達した。作詞は文部省図書編修課長

  の青木存義氏に、作曲はドイツ留学から帰国したばかりの新進気鋭の東京音楽学校教授の信時潔

  氏に依頼した。氏は函館の曽遊の風光とこれを歌う若人の姿を想望しつつ作曲、雄大・流麗・荘重

  なる校歌は40周年から130周年へと函商同窓生の心の絆として一世紀近くにわたり歌い継がれて

  いる。

  五稜ケ丘

  長い間ルーツは不明であったが、昭和61年に旧制26回生の安藤太郎氏により公にされた。

  大正11年10月15日校舎新築記念運動会の3年生(後の旧制26回生)の応援歌。

  大正13年5月11日招魂社(現護国神社)の例大祭に開催された市内中等学校5校による第6回マラソン

  大会(函館公園~湯の川温泉往復)のための応援歌に制定され、学年の応援歌「緑のパンツは伊達

  ぢゃない」は「函商のマークは伊達ぢゃない」に変更された。大会の結果は函商が上位1、2、3位を

  2連覇で占めその戦勝歌となった。

  函館商業

  大正11年7月に元町から五稜ケ丘へ移転後の応援歌。平成22年には、新制6回生の青木鎮夫氏に

  より「大正13年3月9日卒業の旧制25回生の父君」が歌っていたことが判明したことから、

  大正12年頃には応援歌として歌われていたと推測される。

  歌詞にある「土馬」は当時の校長先生のアダ名とも伝わる。平成25年、新制13回生の大角愼治氏に

  より「札幌農學校・惠迪寮のストームの歌」を拝借したと判明した。歌詞の一番は明治38年、二番三番

  は明治43年に作成されたもの。さらに歌詞にある土馬はドバという表記が正しく意味は駑馬(足の

  のろい馬)といわれている。

  函商逍遥歌

  戦後間もない昭和21年6月頃国漢担当の細野哲雄先生が作詞、五十嵐萩緒先生(英語担当)が感

  動の湧くまま一夜のうちに作曲したと言う。

  暁の空を眺めているうちに徹宵の作曲に疲れた頭にふとひらめいた寮歌風のメロディだった。

  星辰乱る

  逍遥歌と同じコンビの作詞作曲。四拍子から二拍子に、更に四拍子へと転調する型破りの行進曲。

  チャイナメ節

  函商名物の応援歌チャイナメ節が生まれた当時(大正5年)は函商野球の全盛期で強敵の私立北海中

  学校(現北海高校)との定期戦において、応援団が何か奇抜なアイデアで相手側を牽制しようと旧制

  18回生の遠藤留吉氏(後に小樽警察署に勤務中、強盗逮捕の際殉職)がチンチンチャイナマン(チャイナメ節)

  を提案し歌って見た結果採用された。試合当日は函館中学校の校庭で北海中学校と決戦、応援団

  は全力を集中してこの奇妙でキテレツなチャイナメ節を大いに歌いまくって機先を制し相手側の度肝を抜

  き函商が勝利を掌中にした。かくしてチャイナメ節は記念すべき戦勝歌となった。このルーツは平成26年

  に歌唱から100周年の記念すべき時に新制13回生大角愼治氏により明らかにされた。原詩は明治

  29年に初演されたオペラ「Geisha」の劇中歌「ChinChinChinaman」であり、北清事変頃に歌われ、

  その後兵士が持ち帰り明治30年代後半に東京ではやり歌となりこれが元歌となった。

  旧校歌

  函商は日本一の商業学校と自負して神山校長は「士魂商才の校訓を制定すると共に函商にふさわ

  しい校歌が是非必要であると痛感され地歴担当の安田尚義先生に作詞を依頼された。かくして元

  町時代の校歌が誕生したのは大正元年の晩秋の頃であった。その後安田先生は健康を害し翌年3

  月に郷里に帰休し作曲がどうして出来たのか知らなかったが後年全国学校の校歌集に函商校歌と

  して掲載されていたという。即ち一高寮歌”嗚呼玉杯に花うけて”の曲に合わせて歌われた。

  あゝ一酔

  大正9年当時5年生の高岩辰蔵氏(第22回生)が作詞、一高寮歌の曲に合わせて唄ったもの。その

  頃函中の応援歌は長谷川海太郎氏(牧逸馬・林不忘)の作ったものでとてもよかったが函商のは古

  びて寂しいものだったので高岩氏は函中に負けないものを作り意気込みをぶっつけてみようと思っ

  た。あゝ一酔の春の夢と元町時代に咲いた函商健児も域に感じる応援歌が此処に誕生したのであ

  る。因みに一酔の「酔」は酔生夢死の酔に由来すると言う。睡でも炊でもなかったことが高岩氏ご

  当人のお話で証明されたのである。最初は最上級生の本科3年生だけが歌い後輩に引き継ぐ約束で

  あったが忽ち全校に拡がり愛唱されるようになった。

 

  ※新制13回生大角愼治氏のご協力を仰ぎ逸話を編集させて頂きました。

   なお、出典などに不注意や誤記がありましたら深くお詫び致します。